奥山忠男

( おくやま ただお)
  【武道家】(1918〜2006)
  

心を澄ませる環境の中で、


大いなる力を得るために自分をつくる


【略歴】
1918年四国生まれ。2006年没
早稲田大学政治経済学部卒業。学生空手界のトップに 君臨。陸軍中野学校の武道教官(合気道の植芝盛平氏とともに候補にあがり奥山 氏に決定)。1960年佐々木小次郎の木剱と出合い、武道を軸に人間づくりの理念 と実践の両面を究明する。

若武者の天の時

放浪から浪人へ

佐々木小次郎の木剱

剱-それは人間づくりの器





●参考資料
奥山氏が書いた復命書
稽古資料



若武者の天の時

戦前の空手界の激しさは今から想像するのも困難だ。試合で大怪我がでるのは当 たり前という中で、雷神のような強さを誇った奥山忠男氏は、早稲田大学・空手部 在籍中すでにOBの江上茂氏(故人)、鎌田(現渡部)俊夫氏とともに「3名人」 とうたわれた。小柄で体重も軽い奥山氏が、神のような武者ぶりで恐れられたこと は、今でも伝説になっている。

経営コンサルタントの船井幸雄氏も絶賛する新体道創始者の青木宏之氏は若き日を回想する。

「私は戦後、中央大学空手部で、奥山先生の先輩にあたる江上茂先生の指導を受けました。江上先生は今までのは武道じゃないと言われ、中高一本拳の突きをされた。
力をすっかり抜いて、そこから拳をベーンッと飛ばした。これが信じられないほどの効き方をしたのです。江上先生はいつも奥山先生の話をされたので、今でも私はあたかも奥山先生に親しく教えを受けたかのような錯覚を覚えます。」

江上氏は「遊天先生空手道指南」(1974年空手道松涛会報4号)という手記で、54年ごろ奥山氏から「既成の概念を全く捨てた突き」を教えられたと述べている。

奥山氏の実力がいかに郡を抜いていたかは、陸軍中野学校が新任の武道教官を探して最終的に絞り込んだのが合気道の植芝盛平氏(故人)と奥山忠男氏だったことからも分かる。結果的に奥山氏が 陸軍中野学校教官に抜擢された。


戦局が悪化した45年4月、鈴木内閣では、あくまでも戦争を完遂し、陸海空軍を一体化して本土決戦から和平に向かうことが決意された。ところが屈伏敗戦を前提に終戦工作をした屈伏和平派の運動が奏功し、6月6日の御前会議では本土決戦方針がくつがえった。軍関係者の多くはこの決定を不満とした。私も同様であった。
このころ中野学校では、もし天皇が屈伏和平案をいれられるなら「死んでおいさめする」という結論をほとんど全員が出していた。

当時、天皇は現人神だとして神格化されていた。その神である人がもし敗戦命令を下したら、これに反抗することはだれにもできない。しかしありていに言えば、われわれにはたとえ天皇の命令であろうとも、日本の屈伏敗戦を納得することなどできなかった。ならば死んで魂魄になっておいさめする以外ないという論理である。
事実、天皇の命令による屈伏敗戦がやってきた。ところが中野学校で死んでおいさめした人間は皆無。むしろ一般の人のほうが宮城前で集団自決したり特攻隊が出撃したりして死んだ連中がずいぶんいたのだ。私は天の時をみつめることしか考えなかった。もう全身全霊で敗戦を否定することしかなかった。

奥山氏は戦争終末の8月14日正午過ぎから15日の正 午過ぎまでの24時間の間に近衛師団と皇居宮城を中心として起きた「宮城事件 」の渦中にいた。しかし事件後もなお陸軍士官学校、東部軍、西部軍などを奔 走する。

日本人のほとんどが、わらにもすがる気持ちで何かを願い求めていた。私は立ち上がって、再戦の可能性に命をかけたのだ。
しかし天の時はみるもる遠ざかっていった。私らの日本はあそこで滅びたとしか言いようがない。
それから私の放浪がはじまった。

放浪から浪人へ

奥山氏は9年間各地を転々と放浪し続けたが、筑波山系にこもったのを最後に山を下りた。猟銃を売って、九州に向かった。宮崎の山中で人生に終止符を打つつもりだった。

西に向かう途上、大本教の出口王仁三郎の娘・出口直日氏(故人)に出会った。出口王仁三郎は宗教家としての顔以外に、戦前、合気道の植芝盛平氏などを育てていた。 奥山氏は宗教的なことに興味はなかったが、いつの間にか直日氏の子息の武道 指南役を引き受けることになってしまっていた。
直日氏はそれまで会ったことのない私の全経歴を一瞬のうちに見抜かれ、何も 言わずに私を「浪人」として遇してくださった。

私は「鳳雛館(ほうすうかん)」という稽古場も与えられて、存分に武道に取 り組むことができた。

その稽古場開きのときに現れた井上方軒(要一郎)(植芝盛平 のおい)先生の超人的な技に接したことは私の目を開かせた。井上先生は、遠当 と呼ぶ「気」を飛ばして触れずに人を突き飛ばしたりすることができた。私は 先生に魅せられ、上京して先生の道場に通った。この間は、早稲田大学体育講 師として授業や空手部を見た。

三年で井上先生にも一目置いてもらえるところまでいった。遠当てについても原理をつかむことができた。しかし、稽古以外の武道社会の複雑さに滅入って、私は東京を引き払ってしまった。
因果のわずらわしさを断つためにいっそ武道そのものもやめてしまおうと思った矢先、出口直日氏は、「来るべき世になっても必要なものだから武道を絶対やめてはならん」と私に厳命された。そして私に王仁三郎氏が生前使われた若松の紋付きを届けられたのだ。
私は驚き入り、武道放棄を思いとどまった。

佐々木小次郎の木剱

私にとって決定的な出来事が起きた。
1960年 京都の丸物百貨店(現近鉄)で開かれた展覧会で、佐々木小次郎の 木剱(ぼくけん)と出合ったのだ。

四尺近い長大なその木剱は誠に不思議な姿をしていた。
木剱の箱には船島(巌流島)の決闘の場から奪い取ってきたたと記されていた。 見れば見るほど引き込まれる。
その木剱を眺めるために私は丸物に一週間通い続けた。

一方その木剱を手に入れようとしたのが直日氏の子息の京太郎さんだった。 彼はついに、東京の所有者から小次郎の木剱を買い取ってしまった。

それから何回も何回も見せてもらった。家に一ヶ月ほど借りてきたこともある。 そうやって現物を見本に何本も何本も自分で小次郎の木剱をつくった。

さて、それをどう仕(つか)うか。

それをはっきりさせるまで30年かかった。
私を慕って何人もの若者たちが鳳雛館に稽古に来ていた。彼らとともに私は日本に残っている古武道、古武術関係の技や文献に次々に当たっていった。
しかし、既成の流派には、鹿島神道流の伝書に八剱という働きがあるということが分かったぐらいで、その実技ももう伝えられていなかった。

船島での宮本武蔵との決闘の話も調べてみると、世間が信じている講談が本に なった話は間違いで、実際には武蔵は多数の手勢を従えて小次郎をだまし討ち に殺したというのが真相であることが分かった。

小次郎の木剱を使う流儀は船島での小次郎の死とともに一度歴史の裏へと完全 に隠されたのである。


ここで私は非常に強く思い当たることがあった。
既成武道の指導者には 、究極のところどんな手を使ってでも勝てばいいのだという武蔵を代表とす る勝負原理が信じられている。

これが武道の存在意義をあいまいなものにしてきた元凶に違いなかった。 なぜなら勝負の原理に照らせば、本気で人を育ててしまったら自分よりも強い人間をつくってしまい、指導者が負けることになるからだ。

小次郎が残した一本の木剱が自分の目の前にある。その事は、小次郎の勝負を超えた意思の再興の可能性を示唆していた。それならば取り組み方は一つだった。理念と実践の両面から、よみがえるべき至上の価値を放つ剱の姿をあぶりだすしかない。

奥山氏の剱の本格的な探求が始まった。それは氏の武蔵型社会に対する挑戦をも意味していた。戦国の世ならいざ知らず、この平和な時代に武道が必要というのは一体どういうことなのか。王仁三郎が書き残した文献も大きなよりどころだった。次第に武道の本質とは、吸う息吐く息の働きそのものであることが分かってきた。

ついに1981年、息の理念の核心を徳川期の国学者、山口志道や中村孝道が発見していた文献からも裏付ける事が出来た。

そうして、武道理念を追求しながら実際に木剱を使うと、得心することばかりであった。 裏付けた息の働きと小次郎の木剱の使い方は不即不離のものであった。

通常の剣や竹刀とちがい、木剱はまったく異質な、むちのような身体の使い方が要求される。というよりはこちらのほうが自然で無理がない。

従前の武道の方が不合理で不自然な体系であったことが分かるのだ。 そして、木剱を使えば、目に見える遠当ての稽古ともいうべきことができる。

これを私は大勢にやらせてみたが、だれもができる。

私が空手時代に命がけの稽古を通してしか会得できなかったことも、この小次郎の木剱をもってすれば誰もが難なくできるのだ。 木剱そのものが究極の技を導いてくれるのだ。

剱-それは人間づくりの器

佐々木小次郎の木剱と出合って33年。


奥山氏が見きわめた剱の価値とは、人間づくりのための器という点にある。
奥山氏はその人間づくりを「心を澄ませる環境」「息の鍛錬」「コトバの鍛錬 」という要素で整理した。

そして「息の鍛錬」を担うものとして剱を位置づけた。

奥山氏の下で稽古をした人は数百人に上る。

氏はその人たちを稽古仲間と言い、弟子とは呼ばない。
道場を弟子を取って飯を食う具にしてきた武道家たちにはさぞ耳が痛かろう。

「奥山先生の指導を受け、既成武道でやっていることがいかにばかばかしい か、技も効かないかよく分かりました。小次郎の剱はシンプルでそして深い。こういうことを現代によみがえらせ、まとめあげた奥山先生は実にすごい人です。
と語るのは中央大学で青木宏之氏と同窓だった島村貞寿日興証券第四金融法人部長。 島村氏は1961年から奥山氏の指導を受け続けてもう32年になる。

稽古する上で、近頃の武術家のように遠当てみたいなことに執着するな と強調している。あれらは次元の低い霊の力を借りている手合いが多い。 見えない力をありがたがり、動物霊でもいいから拝むというような若者を育て る気はない。

そんな妙な力ではなく人間は大いなる力と一体にならなければ何 もできない。その大いなる力が加わることのできる自分をたゆまずにつくれば いいのだ。

奥山忠男。終戦の詔勅の否定に天の時を見 た決起後は、生存の意味すら失った。

死んで生きたような放浪後は、歴史の表 から隠された佐々木小次郎の剱に人間形成のかぎを発見した。

今日も多くの若 者たちは奥山氏の下で自己を鍛える事に専念している。

氏の奇特な人生に触れ ると、つくづく人にはそれぞれ役割があるものだという感慨を禁じることがで きない。

平成義塾(経済界出版1993年7月号の記事より)






参考文献

奥山氏が書いた復命書平成10年12月30日


>



[PR]動画